明智憲三郎的世界(光秀子孫の思い)by法丸 

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help RSS 家康の神君伊賀越えの秘密を暴く

<<   作成日時 : 2009/05/18 23:20   >>

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問:秀吉の中国大返しについての通説を覆した歴史捜査の考え方ややり方がよくわかりました。家康の神君伊賀越えの通説を覆した裏話も聞かせてください。
答:
 私の歴史捜査には初めに答がなかったと何度も言ってきているが、ひとつだけ予見していたことがある。それは、徳川家康には何かある!ということだ。なぜならば、光秀が謀反を成功させようとしたら、強力な同盟者が必要であり、その第一候補は誰がみても家康だからだ。状況証拠だけを並べて家康と光秀が組んでいたという新説を打ち出すこともできただろうが、それは私の本意ではない。あくまで真実を知ることだ。そこで、徹底した歴史捜査で証拠を調べることにした。
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 まず目をつけたのが「神君伊賀越え」と言われる堺から居城岡崎までの脱出行だ。本能寺の変直後のこの脱出行は危険極まりないもので、同行していた穴山梅雪(あなやまばいせつ)は一揆に殺されたというのが通説となっている。信憑性の高い一級史料と評価されている『信長公記』にも穴山梅雪が一揆に殺されたという記事があり、歴史研究でも定説となっていることだ。
 捜査の手始めに東京大学史料編纂所が編纂した『大日本史料』で調べた。この編纂集は編年体(つまり年月日順)で関連する史料の記事が整理して並べられていて、ある事件に関係する史料を調べようとする際にはとても重宝なものである。研究者もよく利用する書物だが、実際に調べてみてわかったのは「ここに歴史研究の落とし穴が用意されている」ということだ。
 たとえば、本能寺の寺の変については六月四日以降、日別に様々な史料からの関連記事が抜き書きされて並べられている。選定されている史料は多岐に渡っているが、その中には『川角太閤記』や『明智軍記』なども出てくる。家康の死後に家臣達が書いた家譜(自家の系譜や手柄などを書いた書)からも多数の記事が並べられている。これらを読み通していくと、自然に現代の通説が浮かび上がってくる。「史料の信憑性の評価を抜きにした多数決」の答がここから出てきてしまうようにできあがっているのだ。
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神君伊賀越え(注記:その経路は諸説あり定まっていない)

 このことに注意しながら神君伊賀越えに関する部分を読んでいくと奇妙なことに気が付いた。家康に随行していた酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、茶屋四郎次郎清延の誰一人として梅雪が一揆に殺されたとは書いていないのだ。むしろ、「つつがなく」、「ご機嫌よく」伊賀を越えたと書かれている。
 梅雪が一揆に殺されたことを書いた代表格は石川忠総(ただふさ)だ。実に丁寧に神君伊賀越えの顛末を書いている。しかし、忠総の生年は1582年。正に本能寺の変の勃発した年だ。彼の記述に信憑性があるかないかを議論する以前の話だ。

問:なるほど。そこで『信長公記』に書かれていることが元になっていると見て、太田牛一が梅雪殺害の情報をどうやって入手したかを探っていったわけですね。あれには納得しました。結局、『家忠日記』に書かれている梅雪切腹の記事が決め手になりましたが、『家忠日記』の詳細な分析からはもっと素晴らしい成果が出ましたね。
答:
 松平家忠という人は事実しか書かない、感想や憶測は書かないという態度で日記をつけていたのだと思う。人から聞いたことは「聞いた」ときちんと書いている。今でいうビジネス文書の書き方を実践している人だ。そういう研修を受けたわけでもないのに身につけているのは、おそらく城の普請や道路工事のエンジニアとして、よい仕事をするためには何が必要なのかをしっかり考えていたからだと思う。
 その家忠が岡崎帰着後の家康の行動を書き残している。この解読が歴史捜査のひとつの山になると直感した。それを読むと、帰着した家康が真っ先に取り組んだのが甲斐の織田攻めだ。甲斐は武田勝頼滅亡の後には織田領となり、信長家臣の河尻秀隆が治め、梅雪も本領安堵されて一部を領有していた。
 家康が光秀討伐など眼中に無く、甲斐の織田攻めに邁進したことは『家忠日記』のお陰で明らかになった。そして、当時、家康のこの行為を織田方が咎めた形跡がないという奇妙な事実に気が付いた。それはなぜなのか妥当な答がみつからなかった。振り返って見ると、このときにこの疑問を持って考え続けたことが核心に迫る結果につながったわけだ。
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問:このお話を伺って、私自身の仕事でも、あらためて注意しなければと思っているところです。他人の経験や考えを知り、時間が長く経過するとまるで自分のもののように感じて書いてしまう。家忠は毎日記録したわけですからそんな過ちも無かったでしょうね
答:
 そこが重要なのだが、この史実は現代の歴史研究でも、まともにとりあがられたことがない。この史実がなぜ見逃されてきたのか、まことに奇妙な思いがしている。研究者が『大日本史料』の落とし穴にはまってしまっていたのではなかろうか。『大日本史料』には『家忠日記』の記事の肝心な部分は掲載されていない。編纂者が通説にあわせて記事を選定したためであろう。これから歴史研究を目指す方々には、こういったことも知っておいていただきたいと思う。

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 日光東照宮の陽明門の門衛。袴(はかま)に桔梗紋がついているとして天海僧正光秀説を唱える人がいるが、明らかに織田家の木瓜紋(もっこうもん)です。念のために拡大図も付けておきます。家紋は数え切れないほどあり似ているものもたくさんあります。紋の中央の花は桔梗ではありません。
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参考:写真の図柄からは「織田瓜」「五瓜に唐花」で、「五瓜に桔梗」が非常に良く似ています。でも中の花はあきらかに桔梗ではありません。両方が掲載されている家紋サイトのページをご紹介します。
出典⇒家紋の湊 家紋の湊の提供⇒音海屋さんのトップページ

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内 容 ニックネーム/日時
 光秀と家康の連携を証明しようとすると、光秀が生き残って家康のブレーンの天海僧正になったという説を唱えているとみなされるようです。先日、あるテレビ局からも、その主旨でインタビューしたいと言ってきました。困った風潮です。それほど天海光秀説は視聴率稼ぎには魅力的なようです。
 天海光秀説は義経ジンギスカン説の亜流に過ぎないと思います。誤認した「証拠」からの無理な推論の典型です。陽明門の門衛の袴の紋所は桔梗紋ではありません。織田家の木瓜紋です。鐘楼のひさしや壁の文様は桔梗紋ではなく装飾用の唐花紋です。実物を確かめれば、誰でもすぐにわかります。そもそも東照宮に桔梗紋があるから、天海が光秀だった、という証明にはなりません。
 歴史にロマンを求めるのは個人の自由です。しかし、誤った話を広く世間に流布されるのは、真実を広めたいと思う者にとってはつらいものがあります。
明智憲三郎
2009/05/21 21:24
今、明智光秀で検索すると桔梗だと大騒ぎ状態になっています。ブームって凄いですね
法丸
2009/05/21 22:11
 とにかく世の中の「本能寺の変」論議は異常な状況です。歴史学界が隠然と主導して通説を言い張る一方で、余りに荒唐無稽な「新説」で世の注目を集めようとする方々が跋扈しています。その典型が「光秀冤罪説」であり、「光秀天海僧正説」のように思います。「イエズス会黒幕説」、「朝廷黒幕説」なども荒唐無稽の一例に過ぎません。
 大変申し訳ありませんが、本能寺の変について云々する方は、まず拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みになってからにしていただけませんでしょうか。著者としては、ここまで真実を深めたのですから、それを踏まえて真面目な議論をお願いしたいと思います。
明智憲三郎
2009/08/27 23:15

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